fm VenusのブログⅡ

私たちの本当の敵は何処にいるのだろうか

明治維新の裏側「ロスチャイルドと田布施の関係」

史実には表と裏の顔があるという視点から今回は明治維新を記事にしてみたいと思います。


明治維新は「文明開化」つまり、日本の近代化の幕開けなどといわれ、一般的には肯定的な印象が強いのではないでしょうか?人々の服装が変わり、考え方、政治、経済、法律、宗教に至るまで、すぺてが近代化の名のもと一気に西洋化していきました。


今の日本の礎を創ったという美談として歴史上に名を残す多くの英雄が幕末に生まれました。その中でもひときわ光芒を放つのが坂本龍馬ですが、彼の動きをもう一度たどり直すと不自然な事がたくさん浮かび上がります。


龍馬は1862年に幕臣勝海舟の門下に入り、その3年後の1865年には海援隊の前進となる亀山社中(株式会社)を設立し、歴史の表舞台に姿を現しました。そしてそのわずか3か月後には第1回目の買い付けとなる7800挺の銃が海外から到着したのです。
普通に考えても当時20代の青年にこれだけの武器購入資金が集められた事自体不自然であり、また情報伝達や物資輸送には今では考えられない程の時間がかかった時代にわずか3か月間で7800挺の銃を輸入出来たことは驚きです。間違いなく何らかの後ろ盾があった筈です。(アメリカの南北戦争で大量に余った銃が輸入されたと言われています。)


ご存知のように坂本龍馬は薩摩藩と長州藩を結び付けた薩長同盟を作ったことが大きな功績として語り継がれています。


当時、長州藩は幕府との決戦に備え、西洋式武器を増強したいと考えていましたが、幕府による厳しい監視が続いており、表立って長崎で取引をすることはできませんでした。そこで1865年5月龍馬は薩摩藩名義で長州藩の軍艦や武器を購入する事にしたのです。


坂本龍馬とおかね(長州藩の武器購入額92,400両)|日本銀行高知支店


これだけの事を成し遂げることが出来た龍馬の背後にはトーマス・グラバーというフリーメイソンの武器商人の存在があったからこそ可能であったのです。


グラバーはロスチャイルド家の系列会社であったマセソン商会の社員でしたが、長崎に赴任し、グラバー商会を設立します。そして、龍馬を使って薩長を結び付け、倒幕派を相手に武器や弾薬を売り、幕府を転覆させるというのがグラバーの計画だったのです。


長崎のグラバー邸は観光名所として有名ですが、敷地内の石碑にはフリーメイソンのシンボルマークである定規とコンパスを組み合わせたマークが今も残っています。
また1987年には、グラバー邸の2階には隠し部屋があったことが分かりました。
幕末の世、薩摩・長州・土佐の脱藩浪士たちが、ここで密会をしていたと思われます。


歴史ミステリー 『 龍馬の黒幕 』 Vol.1  作家 加治将一



次の映像ではフリーメイソンについて、一般的な表向きの内容を説明しています。


歴史ミステリー 『 龍馬の黒幕 』 Vol.2  作家 加治将一


グラバー邸の全貌


石碑に彫刻されたフリーメイソンのシンボルマーク


こうしてグラバーがイギリスのロスチャイルド家のために働く一方で、フランスのロスチャイルド一族は、幕府側に武器を売っていました。このように日本の幕末から明治初期の動乱の間、ロスチャイルド一族は、幕府側と倒幕側の両方に武器を提供し大儲けしようとしたのです。つまりどちらが勝っても彼らが利益を手にし、支配権を握るような仕組みであったのです。これがロスチャイルド一族のやり方であって、彼らは国を超えてつながっていたのでした。当然それは幕府側にも倒幕側にもわかる筈はなかったのです。
明治維新はロスチャイルドが仕組んだ - るいネット



ちなみに日本人で初めてフリーメイソンとなった人物は、西周と津田真道と言われています。1862年に幕府の支持により、2人は西洋の政治、経済、法律を学ぶ為にオランダのライデン大学に留学、1864年にメイソンに加入し、帰国後開成所の教授となって明治政府の近代化政策に取り組んできました。


1863年に、伊藤博文や、井上馨ら長州藩士5名(マセソンボーイズ)をイギリスに密航留学させたのもグラバーの手引きでした。また、1865年には、五代友厚や森有礼ら薩摩藩士17名を密かにヨーロッパに送り込んでいます。 そして、彼らの留学費用の大部分を負担したのは、グラバーの勤めるマセソン商会の社長ジャーディン・マセソンであり、さらにその上には世界一の金融王ネイサン・ロスチャイルドの息子でライオネル・ロスチャイルドがいました。


1863年5月12日長州ファイブ(マセソンボーイズ)がイギリスへ密航留学する。


遠藤謹助(左上)、井上勝(中央)、伊藤博文(右上)、井上馨(左下)、山尾庸三(右下)


ロスチャイルド家にかわいがってもらった5人の若者が日本に戻り、明治政府が出来た後に日本の最高指導者になった訳ですから、いわばロスチャイルド家の子分であった若者たちによって明治の日本が作られていたわけです。このように明治維新後の日本はフリーメイソンを主体としたロスチャイルド勢力が入り込んでしまっているのです。


明治政府は身分制度の撤廃による民主主義の台頭などとかっこよくいわれますが、実際はイギリス貴族制度を模倣して、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵からなる5つの爵位を設けました。元皇族、公家、大名、維新の功臣(新華族)で構成される華族制度を取り入れ、政治・経済の表舞台に入り込んでいきました。


*日銀の歴史について
日銀の正体 - みんなの知らない社会・歴史より引用します。


【日銀の歴史を調べてみると、ロスチャイルド一族の影響下で設立されたことがわかる。「日銀」は、明治14年(1881年)、大蔵相だった松方正義によって設立された。


当時の大蔵相といえば、まだ内閣制度が創設される前であり、彼は政府の最高権力者であった。その松方は明治10年(1877年)にフランスに渡り、蔵相のレオン・セーから「日本も通貨発行を独占する中央銀行を持つべきだ」と助言を受けた。


松方は帰国すると、自らの権限で国立銀行条例を改正し、当時、国立銀行が発行していた政府紙幣をすべて回収して焼き払った。そして中央銀行を設立し、銀行券以外の紙幣を発行することを禁じた。つまり、通貨発行権を独占したのであった。
  
松方にこれらの政策を指示したレオン・セーは、フランスロスチャイルド家の4代目当主アルフォンス・ロスチャイルドの使用人であり、蔵相になる前は、ロスチャイルド一族の鉄道会社の経営陣の一人として腕をふるっていた人物である。


松方はロスチャイルド家当主の間接的な指示により、国立銀行から通貨発行権を日銀の手に奪い取ったのである。】




このような裏話は徐々に知られていると思いますが、本当に私達日本人が知らなければならないのは鬼塚英昭氏が次の映像で語っている内容であろうと思います。


今現在の日本を動かしている政治家と財閥の出身地が何故か田布施という場所に集中しているのです。(田布施システムと称します。)
長州藩のあった山口県には田布施町があります。また薩摩藩のあった鹿児島県にも南さつま市にはかつて田布施村がありました。


日本の真相1 明治天皇すりかえ


明治維新は散々美化されてきましたが実はロスチャイルド一族と田布施の者達が目論んだ日本転覆のクーデターであった可能性が見えてくるのです。


しかしこの内容についてはさらなる検証が必要であると思います。



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